休日の駅で、僕らは透明になろうとしていた
セフレの関係をもっていた頃の話をしようと思う。
その人と初めて二人で会ったのは、休日の昼間だった。
待ち合わせたのは、僕たちがともに最寄り駅として使っていた駅のホームだった。恋人たちがいて、家族連れがいて、親子がいた。どこにでもある休日の光景のなかで、僕たちだけが周囲から切り離されていた。
向こうはマスクを着けていた。僕は黒い帽子をかぶっていた。
人の目に顔が留まらないように、できるだけ目立たないようにしていた。日常のど真ん中に立ちながら、僕たちは透明になろうとしていた。
最初から、健全な関係ではないことは分かっていた。
それでも僕は、その人と関わりたかった。
始まりは、悩み相談のようなものだった。その人の身の上話を聞き、その人が抱えているものを知るにつれて、少しずつ情が移っていった。
当時の僕は、それを「その人の力になりたい」という気持ちだと思っていた。
もちろん、その気持ちがすべて嘘だったとは思わない。本当に、その人がこれからの人生を生き生きと歩んでいければいいと願っていた。その人の寂しさや不全感を、少しでも軽くできればいいと思っていた。
ただ、いま振り返れば、そこには別の願いも混ざっていた。
僕は、その人にとって役に立つ存在になりたかった。
できれば、代わりの利かない存在になりたかった。
誰かを支えることによって、自分の有効性を確かめたかったのだと思う。
その人の問題を、その人自身が解決してしまわないようにしていた自分も、確実にいた。問題がなくなれば、僕が必要とされる理由もなくなってしまうからだ。
端的に言えば、僕は思い上がっていた。
他人を救おうとする姿勢には、ときどき救う側の欲望が隠れている。
その人のためだと言いながら、僕は「必要とされる自分」を守ろうとしていた。
僕は相手の日常にはなれなかった
僕はその人の寂しさを、一時的に埋めることはできたのだと思う。瞬間的な不全感を和らげ、日常から少し離れた場所を用意することはできた。
しかし、それはあくまで瞬間的なものだった。
向こうには、僕のいない生活があった。
抑圧や不満を抱えていたとしても、日常的に支え、支えられる相手がいた。僕はその生活の外側にいて、ふと生じた隙間を埋める存在にすぎなかった。
僕が与えられるものは、映画や小説や旅行のような、短い非日常と大きくは変わらなかったのかもしれない。
僕でなければならない理由はなかった。
それを理解したとき、虚しさが募った。
僕は代替不可能な存在になりたかった。しかし実際には、代替可能なものの一つだった。
いつか時間を重ねれば、相手の日常に入り込めるかもしれない。感情の起伏を安定させ、もっと自信を持ち、頼られる人間になれば、いつか特別になれるかもしれない。
そんな期待もあったのだと思う。
けれど、本来はもっと早く、その落差を冷静に見るべきだった。
「いまはまだ特別ではない」のではなく、「この関係のなかでは、特別にはなれない」のだと。
認めたくなかったのだろう。
当時の僕に何を言っても、たぶん聞く耳を持たなかった。
だから、いまの僕が過去の自分に向けられる言葉は、あまり優しいものにはならない。
もっと自分を見直すべきだった。
相手を変えようとする前に、自分がなぜそこまで必要とされたがっているのかを考えるべきだった。
自分を磨くことと、自分を諦めること
ただし、ここで話が終わるわけではない。
自分を見直し、人格を磨き、安定した人間になろうとすることにも、別の危うさがある。
「より立派な自分になりたい」という願いは、ある種のナルシシズムでもあるからだ。
一方で、安定して生きるためには、自分が自分に飽きることも必要なのではないかと思う。
自分に過度な期待をしないこと。
自分という存在を、ある程度諦めること。
自分を磨くことと、自分への執着を手放すこと。
この二つは、矛盾しているように見える。
その矛盾をつなぐ言葉として、いまの僕が考えているのが「懐の深さ」だ。
懐の深い人であることは、人格を磨くことでもある。
同時に、自分の価値観や理想だけに執着せず、他人や、自分の不完全さを受け入れることでもある。
自分を高めながら、自分に固執しない。
矛盾を解消するのではなく、矛盾した二つを抱えたまま立っている。
おそらく、懐の深さとはそういうものなのだと思う。
けれど、「懐の深い人でありたい」と願うことさえ、懐の深い自分への執着ではないか。
寛容でありたいという理想も、結局は理想的な自己像へのこだわりではないか。
そう考え始めると、思考は無限に後退していく。
自分にこだわる自分。
こだわらない自分。
こだわらない自分でありたいと願う自分。
その願いに執着している自分。
どの視点を一つ上の次元に置いても、さらにその視点を眺める自分が現れる。
数学的な比喩を使うなら、横軸には時間があり、縦軸には自分への執着と、自分からの解放がある。
僕はそのあいだを行き来する。
ただし、その軌跡は滑らかな連続関数ではない。
ある経験によって突然折れ曲がり、それまで使っていた物差しそのものが、ある日役に立たなくなる。
かつての僕は、相手の話を理解しようとするとき、その人がどのような前提を持ち、どの価値観にどれほどの重みを置いているのかを考えていた。
しかし、労働のなかで、僕は次第に「理解する人」であることより、「認められる人」であることを優先するようになったのかもしれない。
労働は、本来なら代替可能な人間に、地位や名誉や誇りを与え、代替不可能であるかのように感じさせる。
仕事において、誰かにしかできないことが増えるのは、誇らしいこととされる。
しかし組織の側から見れば、それは属人化という問題にもなる。
誇りと属人化。
特別であることと、代わりがいないことの危うさ。
恋愛のなかで求めていた代替不可能性と、仕事のなかで求めていた代替不可能性は、別のものではなかったのかもしれない。
同じ欲望が、形を変えて現れていただけなのかもしれない。
こうして考え続けても、自分一人では、自分の立っている座標を完全に把握することはできない。
自分を観測しているつもりの自分も、やはり同じ座標のなかにいる。
俯瞰しているつもりになった瞬間、その俯瞰する自分もまた、観測されるべき対象になる。
自分で自分を、完全に客観視することはできない。
だから、友達が必要なのだと思う。
自分とは違う場所から、自分を見てくれる人。
考えすぎているときに考えすぎていると言い、思い上がっているときに思い上がっていると言ってくれる人。
自分の視界には入らないものを、別の角度から教えてくれる人。
友達の言葉がいつも正しいわけではない。
それでも、自分一人の観測だけで人生を判断するよりは、いくつかの異なる目を借りたほうがいい。
当時の僕に言葉をかけても、きっと聞かなかっただろう。
何者でもなかった場所へ
だから、言葉ではなく場所を一つ渡すとしたら、僕は大学のキャンパスに連れていきたい。
何者でもなかった自分として、多くの時間を過ごした場所だ。
特別な肩書もなく、誰かに必要とされているという確信もなく、それでも日々を過ごしていた。
お前は特別ではない。
だからといって、自信をなくしすぎる必要もない。
思い上がってはいけない。
けれど、自分を卑下する必要もない。
そのあいだに、かつての僕は立っていた。
大学のキャンパスを歩けば、その感覚を少しだけ思い出せる気がする。
あの関係を一言で表すなら、未熟な時間だった。
誰かの力になりたいという思いと、誰かに必要とされたいという欲望を、僕は区別できていなかった。
相手の人生を支えることと、相手の人生に自分の居場所をつくることを、混同していた。
その未熟さによって、関係は壊れた。
だから、あの時間を美しい思い出にするつもりはない。
けれど、完全に無意味だったとも思わない。
僕はそこで、代替不可能であろうとすることの危うさを知った。
自分を磨くことと、自分を諦めることのあいだにある、懐の深さについて考え始めた。
そして、自分一人では自分を見切れないことを知った。
休日の駅で、僕たちは透明になろうとしていた。
あのときの僕は、人の目から隠れながら、たった一人の人には見つけてもらいたかったのだと思う。
特別な存在として、見つけてもらいたかった。
いまは、その願いを否定するのではなく、少し離れたところから眺めている。
また同じ願いに捕まる日が来るかもしれない。
そのときは、一人で答えを出そうとしないようにしたい。
友達を大事にすること。
周りの声を、よく聞くこと。
いまの僕が未熟だった自分に残せるのは、たぶんそれくらいだ。